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道徳ドキュメント「ちがうことをふつうに」


2011年01月14日

NHK「笑っていいかも!?」が再放送されます


昨年末に放送されたNHK教育の「笑っていいかも!?」が再放送されるそうです。
前回見逃した人はぜひ見てください。

放送予定日 : 1/23(日)総合 午前2:05〜4:04(土曜深夜) 
きらっといきるホームページ http://www.nhk.or.jp/kira/

番組担当者インタビュー http://allabout.co.jp/gm/gc/372839/4/


番組の視聴率は0.6%台と低迷したようですが、その割には結構ネットで話題になっていたように見受けます。

「普通におもしろかった」
「いい番組だったのに(低視聴率に対して)」
「見てられなかったのでチャンネルを変えた」
「見た人自体は多いと思うけど数秒でチャンネル変えたのがほとんどだと思う」
「民放じゃ企画書出した時点で120%半殺し。チャレンジしただけでも評価に値する」
「方向性は24時間テレビよりはマシだと思った」
「痛々しくて見てられなかった」

と、賛否両論ですが、低視聴率にしては反響は大きかったようです。
これは世間の常識に対する挑戦的番組であったという事実を現していると思います。


「見ていられない」という反応は正直な意見ではないかと思います。
つまるところ、世間の常識が今の時点でそういう段階であるということです。障害者にどう接していいか判らないというのが根本にあるのだと思います。
障害者にどう接していいか判らないというところの原因は、一般の人が普段障害をもった人と接する機会が少ないからではないでしょうか。接する機会とまで行かなくとも、知る機会があればいいのですが、知る機会でさえもあまり無いような現状ではないでしょうか。
また、障害者が主要メディアから長年排除されてきた結果、このように障害者を直視できない人達を作ってしまったのでないかとも感じています。

昔、テレビ番組もおおらかだった時代、ドリフのコント番組に小人プロレス(ミゼットプロレス:小人症の人が試合をするプロレス)の人達が出てコントをやっていました。
それを見た視聴者から「見世物的で差別だ」というクレームが来て以降、その人達は番組を降ろされました。
クレームを付けた人からすれば「笑いものにされている障害者を守ってやった」と思っていたかもしれませんが、番組に出れなくなった当事者にすれば、活躍できる仕事場を奪われた訳でありますし、本業の宣伝をする機会を失った訳です。もっと根本的な意義を突き詰めて言えば、世の中には色々な境遇に生まれている人が居る、という事実を世間に知らしめる機会を、この「視聴者の善意」によって奪われた訳です。本末転倒なお話です。
実際のところ、ミゼットの選手達は「自分達は笑われているのでは無い、笑わせているんだ」という自負を持っていたそうです。

我々人間という生き物は、自分と違う要素を持った存在と遭遇したときに、警戒する本能があります。
それは、そもそも人間が生存していく為に太古の昔から持ち続けてきた本能でもあるので、どうしようもありません。では、次にどうすればいいのかと言う部分に今回のこの番組「笑っていいかも!?」は挑戦しているのだと思います。

知らないからどう接していいか判らない。どう接していいか判らないから見ようとしない、存在を認めたくない。
そうではなく、知らないなら知らなかったと認めて、彼らがどういう生活を送っているのか、自分達と何が違うのかということを知るところから始めてみてはいかがでしょうか。
その結果、知ってしまえば「たいして違わなかった」という所に落ち着くのではないかと私は予想しています。



私が思うに、この番組は、日本のテレビ史上伝説となるであろう番組だと思うので、番組関係者の皆様におかれましては、今新しいテレビ史を作っているのだという自負を持って番組制作に取り組んでいただけたらと思います。
また、こういう取り組みで大きな役割を担うのがテレビを初めとするマスコミの皆さんでありますので、色々なところから色々な批判があるかと思いますが、前述したような「善意の皮を被った、障害者を直視しようとしないクレーマー」の意見に惑わされることなく頑張っていただけたらと思います。










 

posted by _tomohiro_ at 22:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 痣・血管腫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月10日

大阪オフ会無事終了。感謝。

昨日大阪京橋で行われましたオフ会を無事終えることができました。
参加してくださった当事者の皆さん、賛同者の皆さん、ありがとうございました。

男性3名女性3名の参加でした。


また継続して開催していきますので、今後ともよろしくおねがいします。






posted by _tomohiro_ at 22:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 痣・血管腫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

顔と表情

こういう容姿で人生を航海しているが故に、普通の人よりも顔について色々と考えさせられる機会が多いのですが・・・。


これまでの私の短い人生の中で真実であると思うのは、「顔」というものと「表情」というものは似て非なるものであるということです。違うということです。一緒にしてはいけないということです。


人間というものは血や骨や肉といった細胞組織でできた物理的な集りで、人間がたまたま偶然に卵子と精子が結合してたまたま生まれ、たまたま細胞が結合を継続しているというだけの偶然の産物で、そこらへんに転がっている石ころや機械と変わらないという発想であるならば、人間はロボットとたいして変わりがないということになります。


人間が人間である証明は、その肉体に精神が宿っているということであると思います。魂といってもよいでしょう。心といってもよいと思います。
この精神や心というものが肉体という器を通して、顔という窓を通して現れるのが 「表情」 です。
その 「表情」 は、その人のその時の心情を如実に表します。
喜びの時には抑えようにも止まらない溢れる笑顔となるでしょう。
怒れる時には無意識に眉間に皺が寄り、眉は吊り上り、眼光鋭くなるでしょう。
悲しみの時にはたとえ涙は出ずともやはりその表情は曇ったものになります。
楽しむ時には希望に満ち活き活きとした表情となるでしょう。


人はそれぞれに生まれ持って個性を有します。その中で見た目で一番判りやすいのが顔です。
確かに出来不出来の個体差があり個性はあるかもしれませんが、自分の顔が気に入らずに両親を恨んだところでどうしようもありません。
整形手術で満足できるのならするのが良いと思います。それで満足できて幸福な人生を歩むことができるのならばそれは一つの選択肢です。間違いではないと思います。ただ注意すべきは、あなたのその不幸感覚は、あなたの顔や肉体のみに起因するものですか?ということを今一度自問自答していただきたいのです。
もし根本的に肉体的な欠点のみに起因する不幸感覚でないとするならば、たとえ手術でたぐい稀なる美貌を得ることができたとしても、その不幸感覚は時間と共にまたよみがえってきます。不幸感覚がまたよみがえった人はどうするかというと、さらに整形手術を繰り返します。この繰り返しは根本にある不幸感覚という心の状態をなんとか軌道修正しないかぎり留まることはないでしょう。


人はそれぞれに個性をもって生まれるという話をしました。今の世の中、テレビや広告で見る女性も男性も本当に厳選された美しいタレントさんばかりです。まるで美しくなければ幸福にはなれないような、テレビ電波からはそのようなメッセージさえ窺えます。そしてそれが当たり前の世の中になってしまっています。これは一種の洗脳であると思います。
まるで美しい人間だけが幸福であって、そうでない標準程度の容姿の人やそれ以下の顔の人は不幸であるようなそのような世の中の風潮を見受けます。
しかし、本当にそうでしょうか。顔が美しくなければ幸福ではないというのが真実であるのなら、世の中の半数の人は不幸でなければならなくなります。これはおかしいですね。理不尽な話です。


事実はこうです。顔がたいして恵まれず綺麗でなくとも幸福な人生を歩んでいる人は数え切れない程居るということです。
そしてこれが 「顔と表情は違う」 という気付きの真相になります。


私は昔昔、外へ出るときは自分を守るためにいつも眉間に皺を寄せ、自分に目線を向ける人には「キッ!」と睨み返すようなことをしていました。「一言でもバカにしてみろ、倍にして返してやる!」くらいの臨戦態勢でいつも歩いていました。眉間に皺を寄せ、いかにも機嫌が悪そうに見せて、「この人は機嫌が悪いんだな、触らぬ神に祟りなしだな」と周りに思わせるのが私の防衛手段でした。何からの防衛かというと、「他人の悪意ある視線」と思われるものから自分を守ろうとしていたのです。「俺を見るな、見たら噛み付くぞ」くらいな気持ちです。


この頃の私を周りの人から見れば 「いつもいつも機嫌の悪い顔をして不幸な人生を歩んでいるんだな」 と思われていたことでしょう。そういうことをしなければまともに外を歩けないのですから、実際のところ外れてはいないと思います。


冒頭に「こういう容姿で人生を航海している」と表現しました。人の一生を航海に例えています。航海に必要な乗り舟は肉体です。肉体生命は船です。そして船には船長が必要です。船長が居なければ船は航路を誤り座礁してしまいます。船長とはつまり心です。心がもし間違った場合には船は岩に砕かれてしまいます。
人生が航海ならば、その終着点であり、帰航するべき港はどこであるのかというと、それはおそらく「天寿の全う」であろうと思います。
そしてその航海が成功であるか、失敗であるかを決めるものは、その人生を終えるにあたってあなた自身が幸福であったか、不幸のうちに人生の幕を下ろすかというこの一点ではないかと思います。
そしてその幸不幸を別けるものは、財産を多く残したとか、美しく生まれたとか、恵まれた生活をしたとか、名声を得たとか、そういうこの世的な成功とは掛け離れたものであるとも思うのです。そう思うのはなぜかというと、幸不幸は常に心に起因するものだからです。


だからといって、清貧を推奨しているわけではありません。美を否定するわけでもありません。
物質的に豊かであり、尚且つ美貌溢れる人生を送ることが出来たならばそれは素晴らしいことです。
しかし、そこに心の豊かさ、平静さ、静寂さという幸福感を伴わなければそれは虚しくはないですかと言っているのです。


心が豊かであるとは自分以外の人に対する思いやりがあるということです。自分のことだけに汲々としていませんかということです。
そういう視点に気付いて他の人に思いやりを持って接することができたときに、次にはもっと人の役に立てる自分になりたいと思えるようになります。次にはもっと人の役に立つには自分自身のステップアップが必要になってきます。今以上に人の役に立てる自分となるには努力が必要になるでしょう。新しい勉強が必要になってきます。どのようにすれば人の役に立てるかという心の持ち方は、結果的に自分を伸ばす生き方、自分を生かす生き方となるはずです。
どうでしょう、この人が生まれ持って容姿が劣っていたとして、ハンデを持った肉体であったとして、恵まれない境遇に生まれていたとして、この人を不幸と言うことができるでしょうか。たとえ周りがこの人のことを可哀相な同情するべき人生だと見たとしても、この人自身は幸福な人生を送っていると私は思うのです。


私は私自身、そして私に縁のある人たちが笑顔溢れる人生を送っていただきたいと願っています。






posted by _tomohiro_ at 09:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 痣・血管腫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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